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インターネット字書きマンの落書き帳

   
ドグラ・マグラの歩き方という名の怪文書
やぁみんな、今日も元気にドグラ・マグラしてる?(挨拶)
……しててたまるかよ!(挨拶、からの逆ギレ)

という訳で、今日はドグラ・マグラの話をします。
この作品、日本三大奇書という謎カテゴリに入れられた作品であり「奇書」という文面に違わずヘンテコな作品ではあるんですが、三大奇書の中では比較的読みやすいし娯楽性も高い方だと。
少なくとも「己から奇書である」という自覚をもって書かれた作品ではないと思うんですよね。

「黒死館殺人事件」がヤバすぎるというのは当然あるんですが。
「黒死館殺人事件」がヤバすぎるというのは当然あるんですが。(サビなので繰り返した)

ただ、ドグラ・マグラは「読むと必ず気が狂う」というキャッチーなコピーなどもあり内容よりもチャカポコとタイトルが先行した結果、小説をあまり読み慣れていない人が手を出して「なるほど! わからん!」となる作品でもあるんですね。

小説を読み慣れた人でも「なるほど! わからん!」にならないか?
それはそう!

と、比較的難解と呼ばれる部類の作品である「ドグラ・マグラ」ですが、先ほども申し上げました通り娯楽を放棄している訳ではない!

……。(「黒死館殺人事件」を一瞥する)

娯楽を放棄している訳ではない!
ので……。

作品のポインヨになりそうな部分、とっかかりになりそうな部分に触れて語ってみたいと思います。

これを機会に「何だあれ!? 何だよあれ!? 日本語で書いてあるのにチャカポコしか覚えてねぇぞ!?」と思った人も……たぶん「何だあれ、チャカポコしか覚えてねぇぞ!?」になるとは思いますが、あの奇っ怪な文章のコアとなる部分を紐解くきっかけになればいいな、等と思う次第にございまする。

とかいいましたが、実際書いたのは何かよくわからん怪文書です。
何かデスクトップにある書きかけの文章を見ていたら、この怪文書が混ざっていていつ書いたのかもわからなくて「何これこっわ……こわ~~~~~」と思ったので放流しておきます。

ここまで読んでも心が折れなかった人でも多分心が折れる怪文書をどうぞ。
なお、ドグラ・マグラ事態は途中で読むのを止めてしまったとしても特に責められる事はない程度に「なんだこれ!?」であると思っております。




「月曜日の怪文書」

 ドグラ・マグラという作品がございますが、件(くだん)の本の魅力はその奇っ怪なタイトルと並びうたわれる「最後まで読み終わったら正気ではいられなくなる本」という文句でございましょう。
 最後まで読み終わったら凶器の渦へと放り込まれ自分が正気(まとも)だと思えなくなるとは、いったい如何様なるものなのか。そもそもたかだか本という文字の羅列が人間に正気を失わせる程の魔性を秘めているものなのか。
 そのような興味や好奇心で本を手に取る方も少なからずいらっしゃる事でしょう。

 えぇ、えぇわかります。わかりますとも。
 人間は自分が正気であることを確かめるために、狂気という深淵を覗いてみたくなるものでございますから。
 そもそも「私(わたくし)めは正気である」という保証なんてどこにも無いという事を頭の片隅ではご理解されておりますが、どうにもそれを認めたくないのが人間の性分なのでございましょう。

 あるいは狂気に陥りたいという方もまた少なからずいることでしょう。
 皆がみな正常(まとも)である事が正しいかのように振る舞う世の中があまりにも窮屈で息をするのも億劫になるような世の中が普通(まとも)であるというのなら、狂気というのはもっと自由でありもっと気楽なものではないかと、そんな思いに憧れて件の本を手に取ってみる。
 そのような方も少なからずはいらっしゃることでしょう。

 かくいう私もまたそのような一人でございました。
 その本を手に取った時は本当に自分が狂気に落ちて人間である事が困難になる程心が打ち砕かれるような話の一つでも入っているのかしらん。 そうしたらこの生きるのがひどく面倒な格式張った世の中から少しは解放されるのかしらん……。
 そんな事を思いながら、僅かな恐怖とそれを遙かに上回る好奇心とで本を読んでみたのでございます。

 幸いにもと申しますか、残念ながらと申しますか、私めは最後まで本を読んだ所で狂人にも異常者になもなる事は叶わずご覧の通り、市井のものと何ら変わらぬ日々を過ごしておりますからこの本を読んで正気を失うという事はないようですが。
 えぇ、私めは正気でございます。気など狂っておりませんの……。

 「最後まで読んだら狂気にとりつかれる」というのはあくまで作中に出る「ドグラ・マグラ」という一冊の面妖なる本についてのこと。
 皆様が手に取られる本は自分の根幹を揺るがし価値観をひっくり返す程の魔術めいた恐怖は存在しないので、その点はご安心ください。
 最も、人間の気分というものは自身でも推し量れぬような奇妙な存在でございますから、私めは「正気を保っている」とは思いますが、あなた様が狂気に犯されないという完全なる保証はいたしかねますが。

 はい、人間は存外に予測できぬものでございます。
 完全に、完璧に、という言葉ほど不確かなものはございません。
 ご聡明なあなた様ならそれは充分にご理解されていると思いますが念のため……。

 さて、「読むと必ず狂気にとりつかれる」と言われるドグラ・マグラ。
 実際に読んで気が狂ってしまうというような自覚を得る事はないかと思いますが、そもそも気が狂ってしまった人間は自ずから狂っているということを自覚しないということや、あるいはこの普通(まとも)だと思っている世界そのものが実際はひどく狂っているのではないかという話は考えても終わりなきこと、言ってしまえば詮無き事でしょうからこれ以上繰り返し語るのはやめておきましょう。

 はい、本当に頭がおかしくなるかはさておいて、書き手はある種狂気に魅せられていたという鱗片がうかがえるのは間違いないでしょう。

 私はき○がいになりたかった。
 おおよそ世界がまともとは思えぬさなかでいつだって家族の尻拭いに這いずり回り頭を下げ消耗し徒労におわる。
 いつ終わるとも知れぬ無間地獄を終わらすには、私が正気を失って世の道理も倫理もなにもかも理解できないほんもののきち○いになればすべての責務から解放されるのではないか……。

 斯様な淡い期待と、それが叶わぬ慟哭とが読み取れる。

 作者の人格と作品とは別物ではございますが、作者の思想や人格、経歴、経験、その他もろもろの背景というものが作品のなかに自然と溶け込み、あるいは意図せず滑り込んでしまう事はままあること……。
 件の本を読み終わってひとつ私が思うのは、すくなくとも作者自身に多少なりともそのような意図、あるいは願望があったのではないかということです。

 作者の人なりなんて知りませんし会った事もありません。これから会おうとも思いませんしきっと一生涯食事をともにすることなどもないのでしょう。
 もう亡くなった作者の作品ですからそれも当然でしょうがね。

 さて、作品が書かれた時代背景に少々触れますとあの頃は精神の病というものの扱いはひどいものでございました。
 いやはや、今がまともになったかといわれればそのような事はありませんが、それでもきちんと医者がいて、薬があって、それで幾分か良くなる人がいるのですからずっと進歩していると言っても良いでしょう。

 ですが当時といえば気が滅入って病んでしまったり、奇妙な幻覚などを見るようになってしまったらやれ狐が犬が憑いたのだといって周囲からは腫れ物あつかい。
 社会から隔絶されたような場所に閉ざされて生きてるのか死んでるのかもわからなくされてしまうのが当たり前のように行われいたと、私めは聞かされております。

 いやはや、どこまで真実かはわかりませんがひどい事をなさるもので、今であれば人権屋のみなさんが見つけ次第四方八方から棒をもち袋だたきにしたくなる程度には悪い病院(ところ)も随分とあったようです……。
 ですがすべては半世紀以上もまえのはなしであり、当時はそれが普通だったのも考えると今更その是非を語るのはさしたる意味はないでしょう。
 教訓として「無知であることは他人の人生を軽率に踏みにじるのだ」ということを感じる事はできますが、過去に戻り助け出す事などどだい無理なはなしですからひとまずその善し悪しは置いておきましょう。

 たいせつなのは、そのようにひどい差別や偏見があり畜生のように扱われることを理解しておいてもなお、ドグラ・マグラは狂気に前向きであるということでしょう。

 狂気による酷な扱いよりその先にある精神の自由や責任への解放へ希望を見いだすとは、何と愚かで美しい感性なのでしょうか。

 私が思いますのは、きっとこのこの作者は狂いそうなほどの強い感情を抱いていたのではないかということです。
 それは傷か、あるいは束縛か、あるいは……。

 いえ、もったいつけて言いましたね。
 私は作者が何を背負って生まれ、大いなる苦痛とともに生きてそして死んだ事を知っております。そして彼がその重責に対して、いたってまともな心をもった清らかで健全な人間だったからこそ狂う事すら許されなかったのを知っております。

 狂いたくても狂う事が許されない。
 仮に狂っていたとしても逃げ出す事は許されない。

 そのように悲しいほど真面目で健全で純朴な市井の民による慟哭。
 どうして己がこのような責務を負わなければいけなかったのか。
 そして生まれながらにしてそのような宿命を背負ってしまう人間とそうでない人間、どこが違うというのか。

 それを一生涯理解できなかった。
 あるいは理解しようと思っても認める事が出来なかった悲しき叫びの結晶。

 そのような思いが、ドグラ・マグラという作品を生み出したように私は思うのです。

 現実とフィクションの境目を行き来し、今で言うメタフィクションを用いてまで読者を幻惑しようとして語り綴られる物語は、真面目で孤独な一人の男の慟哭だったように、私は思うのです。

 えぇ、えぇ。
 話すと長くなってしまいますね、年寄りの悪い癖でしょう。

 今はひとまず、頭歌にだけ触れてみることにいたしましょう。
 それに触れ、作者の慟哭の響きを聞き、震える物語の紐を解いていく足がかりにしていただければこれほど幸いなことはございません。


 巻頭歌

 胎児よ
 胎児よ

 何故躍る

 母親の心がわかって
 おそろしいのか


 ドグラ・マグラという物語はは斯様にも面妖な歌とも自由律俳句ともとれぬ奇っ怪でそれでいてひどく陰鬱な不気味さ漂う文から始まっているのでございます。

 胎児というのは赤ん坊の事であり、赤子を語る時は大概生命の輝きに満ちた語り口になるものです。
 赤子というのは未来や希望の象徴であり、幸福のすべてでは無いものの一つの形ではあるのでしょうから。

 ですがこの巻頭歌にある踊る胎児はとうてい生の明るさや活気などを抱いておりません。
 むしろ胎児独特の奇っ怪な、これから人間の形になるとはおおよそ思えぬ姿を思い起こすおどろおどろしい幕開けとも言えましょう。
 踊る理由がおそろしいからなのだから、それも至極当然のように思えます。

 おおよそ生まれてくる喜びとは無縁の、母に対する恐ろしさと踊るという躍動に対するもの悲しい言葉。

 ああ、母親の心とは何なのだろう。
 この母親が特別に恐ろしい母親なのだろうか。腹から出た我が子をすぐに蒸し料理にして出迎えた客人に振る舞おうとするような、そんな鬼女なのだろうか。
 それとも母はあまり子を産む気などなく、愛せない子とこれから長い人生を如何様に過ぎようと思っているのか。
 そんなことを、かんがえたりもするのですが、私は別に母親は、何ら不穏なことなどを考えてはいないいたって普通の「母」ではないと思うのです。

 踊る胎児とはきっと、膨らんだ腹を内側から蹴飛ばす元気な赤子でしょう。
 よく腹の大きくなった妊婦は赤子の胎動を感じ、動いたとか蹴ったとか言うじゃないですか。
 胎児の踊りとはきっとそのようなもの。自らがもつ生のしるしのようなものなのだろうと思うのです。

 あぁ、それならば「おそろしい」とは何のことを語っているのでしょうか。
 愛されて生まれてくるはずの赤子が何を恐れているというのでしょうか。

 私はこの巻頭頭の「おそろしい」というのは我々からすると何ら恐ろしいものではない、ごく普通の事だと、そう思えてならないのです。

 ごく普通の母がもつ、ごく普通の願い……。

 たとえば「元気に生まれてきてほしい」とか。「幸せになってほしい」とか。「何不自由なく暮らして欲しい」とか……。
 そのように人の親が普通に抱きそうな願いだったとするでしょう。

 この世に生きる我々はそんな妊婦を幸せそうに見ているし、実際彼女はよっぽど悲しい理由が無い限りは新しい命が生まれてくる事に前向きです。
 だけどその心を胎児から伝わっていたのだとしたら。胎児が分かっていたのだとしたら。

 私はやっぱり、それは「おそろしい」と思うのです。

 腹の中で安寧に過ごしていた外を知らぬものが母親の心から外を漠然と知ってしまう。
 外にはたくさん自分と同じようなものがいるということ、それらは大概が高慢で自己中心的で哀れむ程に愚かだということ。
 愚か愚かの掃きだめに生まれ落ちて、それでもなお幸せを探し何不自由なく暮らしていくにはどれだけ多くを出し抜いて踏みにじって蹴落とさなければいけないのでしょうか。
 その中でただ普通に息をすることだけが、どれだけ困難なことなのでしょうか。

 ……なんて、別段そこまでこの世の中を悲観してみていなかったとしても、ゆりかごに揺られ永遠に安息を得ていると思っていた胎児がいずれ世に生まれ落ち自分の手で生きてゆかねばならない。
 それを幸せなことだと、親から望まれているとなればそれは胎児にとってこれまでの「普通」とは大きく違う「狂った」世界に相成りません。

 赤子は無垢でありまだ何者でもないのです。
 何ものでもないものが、何かになるよう望まれているのです。
 これまでの居場所が当たり前だったものが無知の世界があると知るのは、それは充分な恐怖になり得るのではないでしょうか。

 赤子であれば無垢であり誰の心も知らずとも赤子であり続ける事ができるというのに。
 知らなければ何も怖くなかったのに、知ってしまったから恐ろしいのです。

 心をわかるという事はとても恐ろしいことでありながら、心というのは自分を形作るものでもある。
 だが自分とは心とはいかにして作られるものなのだろうか。
 また自分とは何が決めるものなのだろうか。
 今まで生きてきた過去というのが自分自身なのだろうか……。

 何を語っても仕方の無い話でございます。
 そのようなナンセンスなことを真面目に考え、真面目に組み立てた結果ひどく幻惑されるような目のくらむ迷宮となったものが「ドグラ・マグラ」のを構築する謎の一つであり、同時にそれは表層に現れながら真核に隠れた感情の一つなのでございます。

 えぇ、すべては「人は何をもって人となるのか」というある種の思考実験。
 記憶喪失である一人の男が、自分がいったい何者なのか知るために言葉をたぐり寄せるものの他者の口から紡がれる言葉は皆どこか肝心なる事は語らず、より恐ろしい世界の調べを奏でらせん状につながれた不穏と波乱と混沌とのなか、すべてが全部一つの鍋に投げ込まれぐつぐつ煮えていくさなかではて、この中に本当に真実はあるのだろうか。
 けっきょく、この男は何者なのだろうか。
 あるいは自分もまた、この男のように誰かに作られた人間ではないのだろうか。

 そのような思考や思想がチャカポコチャカポコと巡るくだりを、時にメタフクションを盛り込んで読み手である我々を翻弄し、そして最後は鐘の音を響かせすべては現実でおこった話なのか一人のにんげんが見た夢に過ぎなかったのか。
 そのようにして結ばれるこの物語は、いかにも面妖で幻惑で挑発的で、それにて難解な作品に見えることでしょう。

 もしあなたがまだドグラ・マグラを未体験であるのならば、この奇っ怪な構造をした探偵小説の風体をもつ書物を読み解く時、そのような慟哭を探して読んでみれば良き道しるべの一つになるかもしれません。

 もしあなたが以前にドグラ・マグラという面妖な作品を読み、何だか要領を得ぬもやもやとした霞のような話でありその実態がつかめないようでしたら、自己と責務というような人間の人間たる宿命などを文中からたどってみれば、物語のもつたましいの形がおぼろげに見えてくるかもしれません。

 奇妙で悲しく、だが美しい物語を。
 一体「にんげん」というものの「自我」あるいは「アイデンティティー」と呼ばれるものは何が決めてどこにあるのだろうか。
 斯様なところに灯りをかざし読み解いていただければ、あまりに偉大なる父の影で生き父という光とともに潰えた夢の中にあるような文字をつむぐおとこ。
 夢野久作の作品の歩き方としてひとつ、楽しいんではないかと思う次第でございます。

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プロフィール
HN:
東吾
性別:
男性
職業:
インターネット駄文書き
自己紹介:
ネットの中に浮ぶ脳髄。
紳士をこじらせているので若干のショタコンです。
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